2021年3月20日に開催した「地球市民講座」のお話や対談を文字起こししたものを全文掲載しています。
パシール・モハバット駐日アフガニスタン前全権大使のお話
「中村哲医師の果たした仕事」
ただ今ご紹介にあずかりました、前駐日アフガニスタン大使バシール・モハバットです。少しお話させていただきたいと思っていますので、よろしくお願いいたします。
このたび中村先生についてお話する機会をいただき誠に感謝しています。 中村先生は長年にわたり、医療支援をはじめ、農業支援、そして灌漑事業を通して」、砂漠だった土地を緑豊かな土地に変えてくださいました。
中村先生は「100の診療所より一本の用水路を」と訴え、干ばつの悪化により、水不足・栄養失調・感染症に苦しむアフガニスタンの人々の生活を変えるために、その生涯をささげてくださいました。自ら現地の人々と共に生活をされた中村先生だからこそ、現状を変えるためには、水環境を整えることが大事だという考えに至ったと思います。1,600か所以上の井戸を掘ることにより、住民がきれいな水を飲めるようになり、そして水路を作ることにより農地に水が行き渡り、農産物が育って、100万人以上もの人々の生活が変えられ、よくなりました。
現地では中村先生のことは「カカムラッド」、ムラッドおじさんと呼ばれ、子どもから大人まで多くの人に慕われていました。日本人でもあり、アフガン人でもあるカカムラドは、私たちのヒーローです。先生を救えなかったことは本当に申し訳ないと思っております。悔しさと悲しみで胸がいっぱいです。アフガニスタンの人々のために全力を尽くしてくださった先生の復興支援への献身と努力は、言葉で言い尽くすことはできません。
私は中村先生とは個人的に長い付き合いがあります。小柄ながら、壮大な心と実行力を持つ、先生のエネルギッシュさに私自ら大きな力を頂いておりました。彼は私のヒーローであり、エンジェルです。私の心から中村先生が消えることは一切ありません。とても尊敬しています。素晴らしい人です。愛しています。
最後となりますが、中村先生の多くのすばらしい功績をたたえ、アフガニスタンの国民、政府を代表して、前大使として、一人のアフガン人として心から感謝を申し上げるとともに、ご遺族のみなさん、日本の国民の皆さん、PMS(注1)のメンバーの皆さん、そして政府に対して、謹んでお悔やみを申し上げます。
アフガニスタンの街や道には今も中村先生を偲ぶ写真やキャンドルを置いてあります。アフガン人はみんな、今も泣いています。ずっと悲しんでいます。私もその一人です。
中村先生は、永遠にアフガン人の偉大な友人であり、英雄です。中村先生のご逝去を偲んで、心から冥福を祈ります。本当に大変残念なことです。
注1:PMSは、平和医療団・日本総院長の中村哲医師が率いる現地事業体。(ペシャワール会のWebサイトより)
今日はちょうどテーマとして「先生から何を学べるか、生き方から何を学べるか」。さきほど申しあげた通り長年にわたって先生と、2003年ちょうど先ほどのビデオにもあって、2002年政府というか政権はなかったんですけど崩壊して、アメリカの空爆にあって。国連をはじめ、日本政府も全世界がバックアップして(ハーミド・)カルザイ大統領政権が誕生してから、ちょうど47歳の時に(年がばれましたけど)、2003年に一等書記官として大使館に入りました。
その前から先生とは知り合いだったんですけれど…それまで、ほとんど彼はアフガニスタンにいたために、直接会うことはなかったんですけど、連絡はしていて、2003年にちゃんとした大使館ができてから先生とメールしたり、そこから二人で、なぜかすぐお互いに非常に親しくなりました。毎回、(中村先生が)日本に帰ってくるたびに連絡を取ったり、いつもお会いしたり、大使館にもよくお越しくださったりと、二人でいろんな、正直にいいまして両方の政府をはじめ、いろんなこと、悪口までも言えるように非常に親しくなりました。 アフガニスタンのためにやったということも、当然ながらアフガン人の一人として非常に尊敬してまして、非常に高く評価してて、すごいなあ素晴らしいなあと思ったんだけど。
私は昔から自分が正直言いますと日本人、アフガン人、アメリカ人、カナダ人、何人はないんですよ。私は人間、みんな好きです。私自分個人も。白もなければ黒もないんです。みんな人間一緒です。みんな人間が大好きなんです。先生こそそうだったんです。そこでいつも話があって、なおさら先生を非常に尊敬していたのは、先生はね、なんと言いますか、人間の偉大さとか、心の広さとか。先生から「今、先生から何を学べるか」というお話ですから、もちろんそれは言うまでもないんですけれども、先生はそれを証明していた。自分の生きていたうちに。 「何を証明していたか」と言いますと、もちろんその、もともとすごい辛抱強さ、非常に強い理論、また強い強い考え方、または非常に強い心の広さ、また先ほど言ったように差別なく、偏見なく、その何人だとかなく、それがなかったからこそ、先生あのくらいのことができたと思います。といいますのは先生は証明したという話なんだけれども、「何を証明したか」と言うと「どれだけすごい人間だったか」と言うこと。
「どれくらいすごいことができたか」というと、36年、自分の一番大事な人生の若い時をアフガニスタンで過ごしたと言うこと自体が、正直な話、自分の国だから言うじゃないんだけど。 もちろんアフガニスタン(は)、正直言いまして、一回皆さん訪れたら、ほんとに一目惚れで、ほんとに絶対リピーターになるくらいの国、国民です。 今ちょっと残念ながら、戦争だとかあれだとか、そうじゃなくて、もともとアフガン人は平和好き、ものすごい穏健派、非常に明るい、お客さん大事にしたり、それこそおもてなしの国。あと風景がものすごくきれい、あと料理もむっちゃおいしい、あと何よりも人間がみんないい。だから先生もそこに惚れたというのもあるんですけど。 先生の偉大さという話に戻すと、36年、自分の国だから今良さもいろいろ言ったんだけど、他方には残念ながら42年間の戦争で、正直言いまして、病気だとか、貧しさだとか、生活がものすごく厳しいとか、確かに続いた国なんです。そんな難しい困難なところを正直言って戦争の中ですから、いろんな争いとかそんな難しい環境の中で先生は(過ごしたんです。)
昔から福岡はすごくきれいな街だとずっと先生に聞いていたの。一回行ってみようかなとずっと思っていたの。 2年前、ある意味で先生のおかげです、これも。初めて先生のところにお邪魔してみたんですけれども、なんてすごいきれいな街。確かに(先生に)聞いていた以上に素敵な街。そんなきれいな街を後にして(先生はアフガニスタンに100の診療所を作ったけれども)、ここ(福岡)だったら診療所、ご自分の診療所を開けばずっともちろん立派に食べていけたと思うんですよ。そんな生活を全部やめて捨てて。特に大事な愛するご家族をおいて。奥様ともそんなに会えない。36年もあんな難しい、厳しい危険なところで一生懸命にやったということが、それこそ自体がなんてすばらしい。 私が何度も言ったように(先生は)人間ではなくエンジェルです。天使以上です。これは普通の人間にはできない。私にもできない。
ほんと先生の口癖だった。いつも二人でお茶を飲みながら、私いつも抱いてたの。先生いつもハグすると、小柄でかわいいの。結構がーっとすると「やめてー」ってパシュトゥー語で。(先生は)アフガン語がぺらぺらで、そこも非常に尊敬していたんだけど、現地の言葉で言われるからしょうがないからやめるんだけど。 悩みも個人のことも先生とそこまで親しいから話してた。会った時も相談したら、ほんと先生の口癖。ほんと公の場でも言ってたし。私、個人、何回も自分の人生の難しい時、困難な時、何回も言われてた先生の一言「いやモハバットさん、やればできる」って。いっつもこれを言われていた。「やればできる」って。そう、それを証明した方です。あの砂漠を砂漠ですよ。今さっき皆さんビデオでみた。正直あれをみたら、絶対どんな人でも、これはもう無理だよと絶対とすぐあきらめる。あんな何年もかけて、(用水路作りを)スタートした時、あれ絶対、気が遠くなる。普通だったら絶対そんなことはもうできるはずがない。
何を「もう一つ先生から何を学べるか」順番に言いますと、先生のもう一つすばらしいこと。それが「何をまた学べるか」といういと、それも証明した。何を証明したかというと希望。あと「やればできる」。 で、希望ですね、ホープそのホープを持ったうえに、それを持っていたからできた。それを先生からいつも聞いてて。先生はいつも言ってたもん。「やればできる」って。先生はもう証明したもん。あんな砂漠をそれこそ緑豊かにした。あんなに(砂漠に)水をもってきて。 また正直、自分の国だけど、非常に問題が多いんですよ。いろいろ。それを乗り越えて、また二重生活もして、非常に大変な中で、あんなことができたというのは、本当にエンジェルというか。だから希望をもつとこと。一生懸命にやること。あとはやればできる。だから人間は一生懸命やればできる。絶対と言うか、これは天からも神様から約束されている、がんばる人には必ずご褒美があると言うことですから。 先生の話をすれば明日の今頃までも終わらない、というか時間がたりない、それだけ先生は立派な方だったんですけど、だから学べるたくさんのこと、あります、たくさん。
残念だけど(先生は)寿命が短かった。現地の人、アフガニスタンも平均寿命は昔、2、30年前までは40歳だったんですけど今は65歳までになってますけど。(先生の寿命は)それはもう現地の寿命でも短かった。日本の寿命で言えば、ぜんぜんそれこそ80歳、80歳以上。真ん中っていうか、先生は残念ながらほんと生涯は短かったんだけど、その中で自分がもう一つ言いたかったことはほんと偉大さっていうと、それこそあんな短い人生の中でこんなことできた、自分のレガシーを残した。これもまた偉大さ。
(中村先生が)どんな偉大さを持っていたか、これから二年目、三年目、ずっと僕ら、みんな集まって。中村先生(に何を学べるか)、これは永遠に続くことと思います。 だからこれも彼の偉大さ。何を彼から学べるかと言いますと、希望、辛抱強さ、一生懸命さ、また絶対やらなければいけない、やれる力、それを学ぶのは当たり前だけど、それを実行したからこそ、余計僕らには自信がつくと思います。先生はあんな砂漠を。 僕ら日常、皆さんもいろいろそれぞれ悩みとか、難しさとか、問題とか、いろいろあると思うんです。自分のこといいますけど、確かにいろいろあります。でも先生のあのぐらい、(用水路を作った)プロジェクトと言うか、やることをやったと言うことと比べると、なんて小さな悩みかなといつも思うんです。先生があんなことできたというのを自分に向かって(考えて)みてください。あなたは絶対できるはずですよ。結構、それで(自分も)乗り超えられたことがあります。 先生から学べるのは、一生懸命やれば、希望をもてば、あとは先生の言葉で言いますと「やればできる」って、「やればできる」って、必ずいつも思って(いれば)何事もチャレンジできるし、挑戦できる。それは絶対できるんです。
先生は日本だけではなく、全世界に、後に残されたレガシー。今もちょうどテーマ「先生から何を学べるか」これ日本ばっかりじゃないですよ。あるいは川崎の皆さんとかこういうところばっかりではないですよ。
これはすごく面白い話ですよ。 皆さん当然ながらアフガニスタンのメディアはみられない、まず現地の言葉があれですから。もちろん英語もありますけど、アフガニスタンのメディアもそう。あとは今、全世界のアフガン人1千500万人?近いくらいますけど、全アフガン人、皆外にいても、当然アフガニスタンの中にいてもそうなんですけど、みんな話していますよ。 これは先生が亡くなられて、しばらくしてからずっと今日まで続いているのは、残念だけど戦争と、長い戦争それといろんな深い複雑なことが生じて、汚職だとかコロナだとかいろんなことで、働かないだとか、人がやられるとか、残念なことがいろいろ生まれてくるわけ。社会って安定しないと、経済が悪くなると、すぐ混乱。いろんな意味でがたがたしちゃうわけ。 あとは戦争だとか、安全さがないと社会が混乱。戦争だとかそういう中で40年間。世界中からわーっといろんなお金が流れてくるけど、とにかくプランニングも何もないとぐちゃぐちゃ。そんな中にはへんな大物だとか、へんなものが結構生まれてくる。結構それが多い。 多い中に、今度はもう一回、先生は生きているうちには水路ですとか、医療ですとか、いろんなことでアフガニスタンの役に立ってくださった先生(ですが。)今もう一度、亡くなってからも、すっごいことでアフガン人の役に立ってくださっている方です。 それは何か、みなさん首を長くして「それは何か早く教えれ!」と待ってると思うんですけど(笑)。 それがほんとそう。今、アフガニスタンのマスコミ、一般のアフガン人が言っているのは「中村先生に学べ」「中村先生に学べ」ということ。 「何を学ぶのか」と言うと、大物が人のお金をとったり、人をいじめたり、もうめちゃくちゃですよ。うそを言ったり。あんな(すばらしいことをやった)先生が手には何もなく、しかも、あんな服装。みたらわかるでしょう。貧しいと言うか、ほんとにそこ(現地)の方。自分の手には何もない。自らこうして、アフガニスタンの為にあんなにも役に立ってくださった。
660万人っていうけど、私に言わせたら家族もふくめたら何百万人もの人、みんなを食べられるようにした。アフガニスタンを豊かにした。緑にした。マスコミも一般の人もみんな言ってる。しかも(先生は)アフガン人ではなかった。今は市民証をもらって、彼は立派なアフガン人なんですけど、ごめんなさい。彼は海外から来て(もともと)アフガン人ではなかった。海外から来た人があんなにもアフガニスタンの為に役に立って、あんなにもアフガン人を幸せにした。それなのに(アフガン人の)お前らは自分の国なのに人をいじめて、お金とって、賄賂をとっている。 それで「中村先生に学べ」が今、すごいことになっている。マスコミも言っているし、一般の人も言っています。そこまでアフガン人は先生のことを愛していて、尊敬していて、ものすごく立派だと思っている。今もそう。
私はいろんな方とお話していて、日本でもそう。アフガン人、外人いろんな方もそう。「Where do you live Mr. Mohabbat?」(モハバット、どこに住んでいますか)と聞かれて「JAPAN」と言うと、ほんと最初に何が出てくるかというと「Oh, Dr. Nakamura」と言われる。ほんと日本=Dr.Nakamuraになっている。 日本に住んでいるというと「残念だったね。中村先生。あんな立派な方、あんなすごい方、あんな天使、あんなアフガニスタンのためにやったこと、アフガン人でさえもしない、できない。やりたくない。やれない。」そんな中村先生は日本の誇りだけでなく、もちろんアフガン人の誇り、あとは世界の誇りです。
あとパターナリズムと言うのはあれだけど、ちょっと分野はぜんぜん違うけど、緒方貞子先生ね。前JICAの理事長だった方。うちの大使館に前カルザイ大統領がみえた時、2009年、2010年ですかね。カルザイ大統領からアフガニスタンのパスポートを(緒方貞子さんに)差し上げた。その時に「You are mother of Afghanistan」、アフガニスタンの母というニックネームもつけた。 そして、現ガニ大統領が中村先生に勲章とパスポート、ID。これは正式なアフガン人のですね。そして(ニックネームも)「You are father of Afghanistan」アフガニスタンのお父さん。これは本当にそうだと私も思う。 二人とも日本の誇り、世界の誇り。二人とも人間として素晴らしい。何人も関係なく、これはアメリカ人でも同じ人はいなくて、ドイツ人でもいない、それなりに立派な方、みんなどこでもいると思うんですけど、それでもなかなか生まれてこない。 中村先生は、最近と言うかずっとそうだけど、去年からマスコミが彼を例えにして「恥ずかしくないのか」と「先生から学べ」と言っている。
私はもう日本に45年、19歳の時から日本にいるんですけど、人間ほんとの人生は20歳から始まる。その時から(私は)ずっと日本にいる。こうしているのは日本の教育のおかげ、日本にすごく感謝しているんですけど、いつでも言っているんですけど、自分は本当に体がアフガン人で、心は日本人。日本人として先生のこと誇りに思っていて、体もアフガン人としても先生のことは誇りに思っています。心から先生に感謝していて、いくら感謝してもいくら先生のことを言っても先生は戻ってこないし、それだけは本当に残念だったんですけど、守れなかったのは残念だけど。
今ちょうどお話があったんだけど、クナール川。彼はそこから水路を引いたんですけど。 アフガニスタンは四つの季節があって、ちょうど日本と一緒。時期も日本と同じ春夏秋冬なんだけと。アフガニスタンは冬は結構、厳しい。みんな結構あったかいと思っていて、暑いのはパキスタンです。 アフガニスタンには3000メートルから4000メートルの山があって、だから景色もすごくきれい。だから雪もたくさんふる。長野だとか岐阜だとか、いろんな山岳地帯と同じきれいな谷も結構あって、だから結構水も豊富なんですけど。周りの諸国は全部アフガニスタンから水をもらっているわけ。だから水って非常に大切なこと、周りの国でも。 クナール川もパキスタンの方に流れていく。だからたくさんのダムを作ると結構水が少なくなる。それは非常にみんな困ることになるんですけれども。国際法に基づいて隣の国にも水をわけなきゃいけない。だからちゃんとやろうとしていますけれども。 ただ相手の国が、特にイランとかパキスタンとか多いんですけど。水の流れから言うと、ダムを造らないでとか。だけどアフガニスタンはダムを作らなきゃならない。 先生はこれからあちこちにダムを造る計画も全部、終わっていた。大統領とか政府とも話しあっていたんです。ダムを造らないとまず電気。電気もアフガニスタンはすべて自分で持ってたんですよ、戦争の前に。ダムがないと電気もない。あとは農業ですとかそれもダムがないと困るということ。 それを(周りの国が)やらないでと言っている。そこで残念ながらテロがおこったのは水のこと、残念ながら非常に大事なポイントだったから。これははっきりいって自分の国の肩をもって言うんじゃないんですけど、あれは国境を越えて向こうから来たテロリストの仕業、もう証拠もありますし、何人かは捕まえているんだけども、法律で絶対逃げられないと思う。これは完全にテロ。アフガン人は絶対に先生に対してそんなこと絶対にするわけがない。
先生は残念ながら戻られないけど、僕らは何ができるかと言うと、福岡のペシャワール会(注2)の皆さんとも、関係者の皆さんともいつも言っているんですけど、私も友人として、先生を愛していた一人として言ってるんだけど、先生はいつもあと30年は自分は頑張りますといつも言っていた。そう言ってた30年は、できれば30年以上、僕らは一生懸命彼の夢を…。 それで何ができるかというと、残念ながら先生はいらっしゃらない、亡くなって何もできないんだけど、(僕らが)何ができるかと言いますと「先生は何をやった方だったか」「どういう方だったか」「どういう心をもってた」「どういう考えをもっていた」「どういう偉大さをもっていた」「彼から何を学ぶ」ということをPRできたり、宣伝できたり、話をできたり。
注2:ペシャワール会は、中村哲医師の活動を支援する目的で結成された国際NGO(NPO)団体。
あとはペシャワール会の皆さん、非常にいいことは、素晴らしいのは娘さんもそれに関わって、家族の皆さんも、そのまま事業を続けるということ。前大使と言っても、私まだ力があるので、アフガニスタンと日本の懸け橋として彼のその夢といいますか事業をやりましょうということ。それしか、今は残念ながら。直接、先生はそれをできないから。 天にむかって安らかにお眠りください。 これだけ最後に言いたいんです。 一つだけ短く言いますけど、皆さんだけでなく全世界に。今幸いに非常に突っ込んだ話、タリバンだけじゃないですよ。いろんなこと、国とつながっていますから。アフガニスタン政府と今、みんな話し合いが行われているところなんですけど、幸いに…。 私ことわざが大好きなんですけど。昔から「朝のない夜はない」とか、「春のない冬はない」とか。いつも信じてますけど、必ず春が来ると信じてます。
アフガニスタンはすべて全部、こんな戦争、争い、難民、すべてがいつ始まったかと言いますと1979年12月27日。これは旧ソ連の侵略。私が日本に来たのは1976年、そのだいたい2年半、3年前なんですけど、私が(日本に)来た時には(アフガニスタンは)王様ではなくて大統領(になっていました。) 正直に言いまして、アフガニスタンの生活は、日常生活はほとんど東京とかわらない。カブールは首都ですけど、一か月以内に、1か月以内だよ。ロンドン、パリ、ミラノのファッション(がきていたん)です。非常にハイクラスで(した。)ほんとに東京きたばかりの時、羽田はまだ丸い眼鏡の世界でもう一緒。 ほんとそれこそ、すべてをこんな目に合わせたのはあの戦争なんです。全世界が残念ながら戦争の12年間。アフガニスタンはひどく戦って200〜300万人の犠牲者を出して、1,000万の難民もだして、国ぼろぼろになった旧ソ連との闘い。でも旧ソ連の奴隷にはならなかった。ソ連には負けるもんか。 あとはご存じのように、日本も非常に愛国心、みなさん非常に高い国だから、侵略されたら自分の国守らなきゃ。何を守るかというとまず自由を守る、宗教を守る、自分の土地を守る、自分の宗教を守る。それはアフガン人、昔から、5千年20の歴史だけど必死だから、必死もすごい。ヨーロッパと全部アジアをつなげる橋だから。それの犠牲として12年間戦った。 そのかわりにソ連も崩壊、共産主義も終わり、たくさんの国も自由になった。ただ残念ながらたくさんの問題からは今日まで、戦争、同じ戦争だけど主役がちょっとかわっただけで残念ながら。今年はいい春が来るように願っています。
会場の皆さんをはじめ、会長様、交流センターの皆さん、また川崎市民の皆さん、関係者のみなさん、こんな場を設けていただいて本当に感謝しています。さらなる中村先生の話ができたということは必ず絶対に天の中村先生も喜んでいると思います。
文字起こし/校正:(公財)川崎市国際交流協会 交流事業課 加藤恵美